おかあちゃんはディレクター Vol.23 「お茶くみ落第」



カテゴリー:おかぁちゃんはディレクター
2016.12.9.(金)

 「アップダウンの激しい人生こそ豊かな人生」
 ダイバーシティに詳しいコンサルタントの渥美由喜氏が著書の中で記していた。そして
渥美氏は、「苦しみを楽しみに変えて働け」と呼びかける。果たして私に出来ているのだろうか。

 他局から三重テレビに移って、20年が経過した。先日、普段は使わない大きなスタジオで永年勤続の表彰があった。人生の半分近くをここで過ごしてきたのかと思うと、多少なりとも感慨深いものもある。
 入社当初、私は総務企画部に配属された。何もわからない私に一人前の仕事など出来るはずもなく、朝、昼、3時、夕方の1日4回のお茶くみがメインの業務だった。しかし私は、このお茶くみさえ満足に出来ない有様だったのだ。喫茶店などでのアルバイト経験もなく、今思うと、湯呑み茶碗からお茶がこぼれる程の勢いでたたき出していたように思う。
 ある日、あまりにも毎日、大量のお茶くみが続くため、「正」という字で1日に何杯くむのか計算したことがあった。(このへんが根の暗さ、性格の歪みを感じさせなくもない)
1年間の総務企画部在籍中、私は1日にかなり多くのお茶やコーヒーを出していた。その杯数や、周辺の古びた喫茶店も真っ青な数であった。
 その後、報道制作部に配属となり、お茶くみからは解放された。意気揚々と、毎朝5時半に出社した。朝の情報生番組のCGスーパーを入力し、昼間は、報道事務としての業務を行った。電話番と番組経費の計算、そして部員の経費立て替え精算に追われた。そのうち、週に1度スポーツコーナーをニュース内で担当させてもらうようになった。取材、編集、生出演。新人だった私は全てに時間がかかり、徹夜で編集をすることも珍しくはなかった。家族や友人などからはVTRの出来栄えよりも「あんたの疲れた顔しか記憶にない」と言われることが殆どだった。帰宅が遅く、年頃の娘の行く末を案じた母は、たまたま一緒にいた先輩に「お願いですから、早く帰して下さいっ!」と訴え、全く関係のないその先輩を悪者にして困らせていた。また、俳優やコメディアンなどとして活躍した故植木等氏を激怒させたこともあった。上司が私をかばい、先に謝りに行ってくれた。産休、育休を経て、営業事務から総務、そしてまた報道制作へと戻ったが、やはり男の子2人の育児は想像以上に大変で、仕事との両立に悩む日が続いた。壁にぶつかる度に、悩みを聞いてくれる上司がいた。そしていつも、そっと背中を押してくれた。

 これまで私は、一体、何人の人に支えられてきたのだろう。新人時代に淹れたお茶の杯数どころの比ではない。眉間に皺を寄せ、険しい顔で淹れたお茶が美味しいはずがないのである。しかし、当時の取締役や上司は、黙って飲んでくれた。しかもいつも「ありがとう」と言葉までかけてくれていたのだ。
 夏の暑い日、汗だくになりながら頭を下げて、営業先を回っていたに違いない。冬の寒い日、凍えながら理不尽な扱いにも頭を下げていたに違いない。そんな人たちに、なぜ私は「お疲れ様でした」と、笑顔でお茶を淹れることが出来なかったのか。僅か1杯のお茶で、疲れが取れたかもしれない。明日の元気に繋がったかもしれない。あのお茶は、若かった私に課せられた試練だったのであろう。「お茶に込められる意味をいつ理解するのか」、20代前半の私は、あまりにも若く、浅はかだった。
 20年かけて、ようやく分かったこと。お茶1杯にも意義があるということ。そして、気持ちよく自身の仕事ができたのは、諸先輩、同僚、後輩、そして各部署の助けがあったからこそということ。

 「アップダウンの激しい人生こそ豊かな人生」と渥美氏は語る。ニュースデスクを始め、ニュース内における私の失敗数は増えている。約17分のニュースにそれほど多くの失敗はさすがにないが、日々、幾つかの失敗が繰り返される。失敗数の「正」は増減激しく、毎日のように私を襲う。勤続20年という節目の年を迎え、改めて、この「正」を豊かな放送へと繋げていきたいと考えている。苦労を楽しみに変えて働くことが出来るよう、とにかく前を向いていくしかないのだろうと思っている。大きな車の小さな車輪、そのまた小さな突起でしかない私であるが、アップダウンのある坂道もスムーズに走ることが出来るよう、自身を磨いていきたいと気持ちを新たにしている。
記事URL | 投稿者:深田和恵|コメント(0)